2014/01/04

つながる、ということ

 
 私たちは、自分以外の人や動物や社会とかかわることで、生きています。

いわゆる「つながる」ということは、互いが自分を開き、受け渡し、相手を受容し、そして共に新しい流れを生み出す共同作業なんだと思います。

だから私たちは笑い、驚き、怒り、悲しみ、喜ぶことができるし、だから私たちは愛し、許し、共感し、慈悲の心を持つことができるんですよね、なんかすごいことです。


 いまはネットの世界で、いつでも、どこでも、他者と「つながる」ことができる、と誰もがそう言います。

facebookで写真や近況をアップしたり、Twitterでつぶやいたり、Lineでリアルタイムでお喋りしたり、いままでなら、ひとりで自分や周囲の環境と向き合っていた時間を、遠く離れた友人とバーチャルに共有することができます。 

   たとえば、外出先で「あ!」と思った光景を、写真に収めてはSNSに投稿し、友人や見知らぬ他者と感動をシェアすることで、自分は独りぼっちではなく共感してくれる仲間がいる、という心地よい安心感を味わえるし、反対に、他者との繋がりがウザくなってきたら、いつでも私たちには「レスポンスしない」もしくは「スイッチを切る」という選択があり、リアルな人間関係のようなシガラミや煩雑さとは無縁なのですから、なんとも便利な世の中になったものです。 

そういえば、スマホもパソコンも、自分の携帯すらなかった昔の自分は、どんな風に、他者や世界と関係性を築いていたかしら?と思うことがあります。

私自身の思春期~青年期は、携帯が普及する前だったから待ち合わせも真剣勝負だったし、一緒にいる”このときにこそ”とばかりにやたら喋っていたし、感動的な景色やライブを目の前にしたときは、写真や動画で記録を残そうとする以前に、その”感動”自体に身を任せていた気がします。

自分の外側に世界がある、のではなく、大きな世界の中に自分がいる、そんな感覚。

 現在のクールでスマートな生き方と比べたら、ずいぶんと要領悪くてダサいし、あまりに体当たり的すぎてみっともないコトも多々あったけど、その分より豊かに、ディープに、生き生きと瞬間を楽しんでいたのかもしれないなぁ。。。なんて、これらの記事や動画を見ながら、そんなことを思っていました。 








ネットを通じて、世界中の友人知人とリアルタイムでつながっている連帯感や安心感。まるで世界が広がったような感覚を持ちながら、PCの画面の前にいる私達の表情は、ときにゾッとするほど不気味に無表情で、孤独な影を落としています。 





Apple のコマーシャル “Misunderstood” クリスマスを舞台に、スマホ中毒の少年が家族にとあるプレゼントを・・・。巷では感動作品との評価も高いのですが、私個人的には「???」と違和感満載。いや、それよりも、普通に家族団らんをリアルタイムで楽しむことの方が、絆は深まると思うんですが・・・。 





短編作品 “I forgot my phone” 誰もかれもがスマホに夢中。そんな日常に違和感を感じる少女のショートストーリー。かなり誇張されてはいるけれど、多かれ少なかれ、こんな現実の中で私達は生きています。あなたが語りかけているのは、目の前の私なのですか?それとも、その画面に映る私なのでしょうか?

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