2007/03/06

縁というのは



縁というのは不思議なもので、我々の意思や意図などフフンと嘲笑うかのように、思わぬところで思わぬ形で起ち現れてくる。まるで大いなる歯車が、ゆっくりとしかし確実にギシンギシンと回る中、芥子粒ほどの存在がどんなに抗おうと、反対方向へ行かんと決起奮起しようと、あわれ最終的にはギシンギシンの流れの中、呑みこまれてゆく様のようだ。

しかしだからといって、抗うことを手放すのが最善策かというと、疑問だ。スピ系の視点からすると、ゴールは「手放すことです」なんてお行儀良く言いそうだけど、とりあえずは煩悩葛藤と共に、もんどりうって歩むぞ我が闘争、な私としては、最終的には負けちゃうとしても、それでも「抗う」こと、そしてその因果の体験、それ自体が「そうなるべくして起こった」ことだと思うから、むやみに最初から「諦め」ることができない。つまり、これ煩悩ナリ?

全ては「必然」である、とお決まりのフレーズをのたまうのは結構だが、モノゴトの結果だけを指して、そう安易に言っちゃいけない気がする。だって、そこへ至る過程自体にものすごい意義があるんだから。毎日毎分すべての瞬間において、大小さまざまな「選択」の機会があって、私たちは意識的に、また無意識に何千何万という「選択」をし続けている。そして、そのひとつひとつの「選択」によって、最終的には「必然」となる将来が決定づけられてゆくワケで、これを意識すると、どんな「選択」をも疎かにできないし、What a bleep do we know?じゃないけど、アチコチにあるサインを見逃すな!って感じになってくる。



今目の前で点滅する信号を見て、「走る」か「待つ」か?

本屋で素通りしかけた「とある本」を、立ち戻って手にとるのか、そのまま通り過ぎるのか?

バス停で隣り合わせになった人へ、言葉をかけるか、そのまま無視するか?

今目の前にあるこの道を、一体私は右へ曲がるのか?左へまがるのか?

今、私がインドにいるということは、過去のどの部分の選択がキッカケだったのだろう?




Choice is yours という言葉が好きだ。つまり、選択はキミのもの=決めるのは他の誰でもないキミ自身だよ、という意。他力本願に陥らないためにも、自身の人生の責任を一手に引き受け、また自分で歩む道を切り開いてゆくんだという、権利と責任をしっかり認識するためにも、とても有効な一言だ。他人にこれを言われると、日本的感覚からすると「突き放された」気分になるかもしれない。でも、そうやって個を尊重されることに慣れてくると、「周りがこうだから私もこうする」ことから遠ざかり、「本当に私が欲しているのは何なのかな?」ってことを知ることができる。

だけど、個とはなんぞや?ワタシのアナタのキミのボクのエゴが作り出している幻影にすぎないのだよ、とは、また別の声。なんだか最近、日本人として培われた精神構造と、西洋と関わることで鍛えられた個人主義的な自我の確立と、ヨガをキッカケに発見してきた気づきや東洋的世界観とで、やたらとクロスオーバーでフュージョンしている自分を見つける。でも結局、要はバランスなんだよね、と、ひとりごちて、こんなとりとめもないことを、エンエンと考えて過ごした一日。

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